『14歳 いらない子』は、当時14歳の女の子が自身の虐待の体験を綴った著書である。
彼女自らの言葉で、詩と散文によって構成されている。
この本には随分以前に、書店で偶然に出会った。
たまたまタイトルに目を奪われ手に取ったのだが、少しだけ中を見てみるつもりが、読み始めると目が離せなくなった。
当時自分とそれほど歳の違わない子供が、虐待された過去や自身の感情を吐露している、とても生々しい、痛々しい内容だった。
悲しいことに子供の虐待の話はよく聞くけれど、しかし彼女の言葉は特に、心を掴んで離さなかった。
綴られている詩の言葉が美しいのだ。
いや、美しいというと語弊があるか、、
凄惨な体験をして、一度普通の日常とは違う世界を見てしまい、以前とは違った人間になってしまった人間の、すっきりと、そぎ落とされて研ぎ澄まされた、鋭利な言葉。
以前、私の部屋を訪れた友人がこの著書を見て、「どうしてそんな悲しそうな本を持っているの?捨てたら?」と言ったことがある。
確かに捨てたくなるような本なのだけれど。。
もしも目を瞑ってこの本を捨てれば、同じようにこの子の過去も捨てられたらいいのに。
虐待された子供は、例え保護されたとしてもそのトラウマを一生抱え続けなくてはならないし、世間からは腫物を触るように扱われる。
目があうとハッと目つきの変わる人。
無理につくってる笑顔に、笑った。
誰も責めない。
言葉では。
でも、体全体が口だった。
「死んで。」
人間に。
世間に。
愛とかいってる人に。「14歳 いらない子」より
例え周囲の人間に悪気が無かったとしても、当人は一生「虐待された子供」というレッテルを背負って生きて行くのだ。
そして私たちは知らず知らずのうちに、そのような見たくはない現実から目を逸らして、不浄のものとして無意識に日常から遠ざけていることがよくある。
人ができた。
心も
傷もおきざりにして
人が人をさばこうと
人が人が殺そうと
人が人に泣こうとも
人は人を絶やさないためにうまれたの。「14歳 いらない子」より
何も知らなければ、この詩はどこの詩人か哲学者が書いたのか?と思うかもしれないが、虐待された子供が記したものだと知れば、これほど痛切な言葉があるだろうか。
周囲の人間が当たり前のように享受している愛情や幸せを、この子は受けることができなかった。
誰に守ってもらえる保障も無いままに、単なる男女の間の産物として、無責任な現実世界にただ産み落とされてしまった。
この子が今どうなっているのか、何をしているのか、私は何も知らない。
出版当時から計算すれば、もう彼女も立派な大人になっているはずだ。
この本を読んだ後にはとても陳腐だし、無意味にも思える言葉になってしまうが、正直な自分の気持ちをここに書いてしまうと、「どうか今幸せであってほしい」と思う。