谷川俊太郎とは言わずと知れた日本の詩人である。
作品や著書は数多く、詩に興味の無い人でも彼の作品の中のひとつくらいは一度は目にしたことがあるのではないだろうか。
『かっぱかっぱらった』のフレーズは馴染み深いし、作品『生きる』は小学校で使用する教科書に載っていたこともあり有名である。
またテレビCMにも作品『朝のリレー』が起用されており、記憶にある人もいるのではないだろうか。
そういった彼の作品からは明るく爽やかな印象が感じられる。
しかし彼の作品群を読んでいってみると、「生きるって素敵!」「生きてるってすばらしい!」といった世界観は感じられない。
彼の作品の中にはこんな一節がある。
なんという恩寵
人は
死ねるそしてという
接続詞だけを
残してそして/著書:minimal より
彼の作品からは生に対する視線と同様に等しく死に対する眼差しを感じる。
ごく自然で身近なこととして作品の中で語られている。
またこのような作品もある。
いつだったか子宮の中で
ぼくは小さな小さな卵だった
それから小さな小さな魚になって
それから小さな小さな鳥になって朝/著書:空に小鳥がいなくなった日 より
やがて死が私を古い秩序にくり入れる
それが帰ることなのだ…帰郷/ より
彼は自然主義者か?ナチュラリストなのか?と思わせるような詩である。
確かに彼の作品からは自然主義的なアプローチを感じるが、彼には特定の思想や信念は無い。無いと断言しているが単に私がそう感じるだけの話で本当のところは分からないが、彼の作品からは枠組みや方向性というようなものが見当たらないのだ。
周囲の物事を様々に視点を変えて静観しているように感じる。
そして日常を綴った作品も数多い。
普通ってのは真綿みたいな絶望の大量と
鉛みたいな希望の微量とが釣合っている状態で夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった/ より
どんなよろこびのふかいうみにも
ひとつぶのなみだが
とけていないということはない黄金の魚/著書:クレーの絵本 より
ああ、本当にその通りだな、という。
人生はドラマのように明るく前向きで最良の結末が待っているものであるとは限らない。
実際の生活なんて大半のルーティンワークと日常的にやって来る苦労とそして少しの楽しみでできているようなものだ。
しかしそれでも「真綿みたいな絶望の大量」にも人生における敬意を払わなければならない。
なぜならそれも含めて「人生」であり、それ無くしては人は生きないからだ。
存在するというのは単純で簡単なことのようだが、生きようとするとやはり何かと苦しみや悲しみが付き纏い、ややこしくて難しいことなのだ。
そしてそんな人間達はどう生きているのか?どこへ向かっているのか?
ヒトに自分がいなくなった日
ヒトはたがいにとても似ていた
ヒトに自分がいなくなった日
ヒトは未来を信じつづけた空に小鳥がいなくなった日/ より
人間は人間を驕ってはならないし、そして他の何者に対しても尊厳を払わなければならない。
豊かさを追求し続けた結果の現代における人間や世界の形骸化は、本当に人が本来目指した未来の姿であるのか。
どことなく世の中を傍観しているような雰囲気の作品も多いのだが、もちろん身近な人について書かれた作品もたくさんある。
だがお前さんもいつかはばあさんになる
それは信じられぬほどすばらしいことうそだと思ったら
ずうっと生きてってごらんあかんぼがいる/著書:真っ白でいるよりも より
彼の作品を読んでいると世の中全てを達観しているのか?と思うこともあるのだが、身近な人について書かれた詩からはやはり愛情が感じられる。というかすごく愛情を感じる。
…だがしかし何だろうか。
身近な人を綴ったにしろそうでないにしろ、その作品と作品の間にはっきりと線引きが出来ないような、何か根底の部分からは同じ匂いが漂って来るような感じがするのは…
彼の詩からは身近な存在に対しての愛情を感じるがそれと同様に一種の客観性も感じる。そして身近でない存在に対しても同じような客観性を感じるし同様に愛情も感じるのだ。
彼は著書『minimal』のあとがきにてジョン・キーツの「詩人はカメレオンだ。詩人の本質はnon-selfだ。」という言葉を引用しているが、彼の詩からは確かにこの世界の様々について一歩引いたところから等しく眺めているような、そんなある種の距離感を感じる。
彼の作中の言葉にはハッとさせられるものも多いのだが、優しい言葉にしろ厳しい言葉にしろ、それは深く感情をえぐってくることは無い。
彼の詩を読んでいると、ぼんやりとその言葉の海の中を漂っていたくなるような、そんな感覚になるのである。
「詩人の本質はnon-self」であるのならば、彼の詩に生々しい個人の感情が混ざっていないからこそ、そのような感覚を味わえるのではないか。
しかし彼の本質がnon-selfであるのならば、彼の作品についてどのようなものであるのかを説明するのは文才も批評眼も無い自分にとっては難しい。
現にこうやって彼の作品を引用して羅列していくぐらいしか出来ないのだから。
そうやって羅列して、カメレオンのごとく彼の身に写し取られたこの世の様々が彼の詩によってアウトプットされた数々の作品を指さし、「これが彼の作品です」と言えるだけなのだ。