ヤマシタトモコの『HER』を読んだ感想…リアリティのある女心

ヤマシタトモコ著・『HER』。
全6話からなる単行本。

 

登場人物はher―「彼女」たち。
様々な女性が登場するのだが、タイプはみんなバラバラだ。
コンサバ系女子、サブカル系女子、無頓着系女子…

自分がもしもカテゴライズされるとしたら、一体どのタイプなんだろう…?
とか考えながら読み進めつつも、なぜかどの女性にも何となく共感を覚えてしまう。

それは作者の表現力の成せる技なのかもしれないし、または自分が今までに周囲に多くの女性を見てきたために、経験と主観とが曖昧になっているせいなのかもしれない。

「こんな子いるいる~分かる~」
と思いながらも、どこか自分事のようにも感じる。
しかし「女」という共通項があることを考えると、それは当然のことなのかもしれない。

彼女の中にいる私。私の中にいる彼女。この彼女の中のあの彼女。彼女。彼女。彼女…
「彼女」は世界中に存在する。

 

「彼女」と「彼女」は交流したり、または時に対立を起こしたりもする。
そしてその問題に男が絡むことも珍しくない。

case1.の井出は自分のスタイルを貫くタイプで、男に媚び媚びな女性を嫌う。
しかし「世界中の男に好かれたいのか?」と敵意を向けつつも、同時にそんな反感を持つこと自体が自分も男に興味があるという事実に他ならず、「彼女」と「彼女」が同じ本質を持っているのだということが分かる。

case5.の花河は井出の嫌う媚び媚びな女性だが、彼女は飾らないタイプの本美を嫌う。
自分に無いものを全て持っている彼女を「好き」だと思うが、同時に、生まれ持った「育ちの良さ」がある彼女に対して「ずるい」と感じる。
なぜなら、花河が男に対してどれだけ表面上を取り繕っても、「育ちの良さ」の前ではそれが無力に等しいからだ。

case2.の小野房は仕事もキャリアも持っているが、独り身だという自分の現状について常に不安が付き纏う。

case3.の女子高生のこずえは、友人達の同調圧力から無理に処女を捨てようとするが、それを隣家の武山から「人類にあまねくふりかかる呪い。世界の決まり。」と助言される。
しかしレズビアンであり子供を授かれない武山は、「男と繋がれないのは こんな絶望をしなければいけないのか…」とも言う。

case4.の西浦は10代の時に母親の浮気を知ってしまい、それが原因で男と奔放な関係を繰り返す。
それは自分を裏切った母に対する反抗なのだが、しかし男は復讐をするための道具なのか、傷を埋めるための手段なのか…

 

日々日常の中で、友人どうしではしゃぐ女子学生や、旅行を楽しむ女子グループや、カフェでおしゃべりをするご婦人たちを見ていると、「この世に男なんて必要ないんじゃないのか?」と思う時がある。

男女のどちらかが不要なんてことは当然ないのだけれど、女性の立場からに限っては不思議とそうでもない気がするのはなぜなのか。

…しかしよくよく考えてみると、女にはやっぱり男も必要で、女を女たらしめているのは男の存在である。
しかし女にとって男は「不可欠要素」であっても、「最重要要素」ではない。

case1.の井出はこう言う。
「別にあなたのことは特別好きじゃなかったけど あなたがあたしを好きになったら あなたを選ぶ準備はできていた」

…これって女なら分かるような分からないような。

男の「誰でもいいから彼女が欲しい」っていうのとはまた違う。
男に選ばれない自分は欠陥品のように感じるけれど、でも適当なピースで埋められるのはイヤ。自分は常に一番に愛されていなきゃ自信が持てない。
みたいな…?

こういうのを見ると「女って何考えてんのか分からん、怖え~!」とか言う男がいそうだが、そんな男はcase6.の高子から「わたし『女の人って恐いよね~』とか ふぬけたツラで抜かす男の人って ほとんど殺したいくらいの気持ちなの!!」って言われそう。

高子の彼氏である柳井は「女の人って好きなものが多すぎる。優先順位をつけない。欲張り。」と言う。
そして「女は醜くて、男は愚かだ。」とも言う。

作者はなぜ、男である柳井にこのセリフを言わせたのか?と少し気になる。
しかし柳井の言う通り、「女は醜くて、男は愚か」であるからこそ、「地球は女で回っている」のかもしれない。

 

自分とは全然タイプの違う女性が多く登場するこの本だが、しかし冒頭でも書いた通り、共感する部分が多い話でもある。
しかしこの歳まで生きたからこそ、共感できる部分が多いとも思えるのだ。
この本の対象年齢は少し高めだろうか。

女の人だけではなく、男の人にも読んで欲しい作品でもあるので、ぜひ男女問わず手に取ってほしい。