佐々木マキ氏による著作、「やっぱり おおかみ」。
クラシカルでどこか影のある雰囲気の絵が印象的です。
おおかみの子供が主人公の物語です。
動物が主人公といっても、決して牧歌的なお話ではありません。
おおかみは仲間を探して街の中をさまよいます。
このおおかみの子ども以外に、他のおおかみ達はみんないなくなってしまっていたのです。
街角に溢れる、うさぎの群衆、ぶたの群衆、しかの群衆…
しかしどこを歩いても、おおかみに似た子はいないのでした。
――― 一体、このおおかみとは何者なのでしょうか?
かつていた絶滅種の日本オオカミのこと?
友達がいない子どもの象徴?
それとも深い意味などないのか?
おおかみは結局、自分と似た子を見つけることはできませんでした。
「おれに にたこは いないんだ」
…しかしそんなセンチメンタルなセリフとは対照的に、見上げた頭上には大きな空が広がっています。
それは何を表しているのか?
解放感?自由?今までの気持ちとの決別?
佐々木マキ氏がイラストを執筆している作品の中に、「わたしが外人だったころ」と言う著書があります。
月刊「たくさんのふしぎ」から出ている『わたしが外人だったころ』(1995年7月号)は、鶴見俊輔氏の文章と佐々木マキ氏のイラストによる著書です。
その著書のあとがきに、佐々木氏はこのような言葉を書いています。
人間には、世の中の内側にいる人間と外側にいる人間がどうしようもなくあるようです。~
~自分は、普通の人間として世間の仲間入りをすることは不可能であること、外の人間としてやっていくしかないということを、いやおうなく自覚していました。
さいわいというか、かろうじてというか、ぼくには絵を描くという能力がありました。
~というのも、ぼくにとっては絵を描くということが、ぼくと世の中をつなぐパイプになったからです。
できればこのパイプが新鮮な風を送るものであってほしいと思う。作者のことば/外の人/佐々木マキ
私はこの言葉を読んだ時から、「やっぱり おおかみ」に出てくるおおかみとは、佐々木氏自身のことだと勝手に解釈しています。
佐々木氏にとってのパイプとは絵でした。
それらを通じて呼吸をすることができた。
一見順調に生きているかのように見えていても、人からは分からない悩みや葛藤、生き難さを抱えている人は、実は少なくないのではないでしょうか。
周囲と同じ人間でなければならない現代では尚更――。
人々は何かしらのパイプによって支えられて、もしくは息をするためにそれらを探して―― 生きているのではないでしょうか。
「やっぱり おおかみ」。
この短い物語の絵本を、おおかみが自分らしい生き方を見つけて生きていくという、前向きで肯定的なお話だとは、私は紹介するつもりはありません。
この物語の中から感じるのは、自分が外の人間であるということを否応なく認めさせられた者の、諦め――…その感情を昇華させた先の諦観…のようなものです。
物語の終盤に出てくる、おおかみが放ったあのセリフはとても印象的です。
「やっぱり おれは おおかみだもんな
おおかみとして いきるしかないよ」
け。